何のために書いたのか分からない文章が出てきたので貼る

古いハードディスクの中を見ていたら出てきた。

タイムスタンプは2007/2/22になってた。大学院1年生。

essey01.txtっていうファイルだった。

面白い文章を書く、というのは、とても難しい。しかし、くだらない文章を書くのは比較的簡単かもしれない。くだらない題材について書けばいいからだ。たとえば、おっぱいについてなんかどうだろう。

しかし、くだらない文章の題材として、おっぱいを取り上げようとした途端、その困難さに直面することになる。なぜなら、このような文章の題材として取り上げるおっぱいはくだらないものかもしれないが、おっぱいそのものは、生物学的な側面から見ると、まったくくだらなくないからである。このように、ものごとの多面性というものは、ときに問題を非常に複雑にする。「あのひとは善良な人だ」と言っても、完全に善良な人間というのはなかなかいない。人間に対しては常に優しくても、例えば、いけないと思いつつ、ゴミを深夜に出したりしているかもしれない。そういう人間は善良ではないのだろうか? 「日本は景気が悪い」と言っても、日本のすべての企業が伸び悩んでいるといえるだろうか?
あるものごとの全体を言葉で語るとき、その複数の側面を一度に表現することは非常に難しい。すなわち、文章で戦わなければならない立場のわれわれが、おっぱいの多面性を無視して、おっぱいを語ることは許されないのである。ちんこやうんこですら、医学的側面からいえば重要なものごとである。
以上のことから、すでにわれわれは、おっぱいのすべてをここで語ることは不可能であることが分かる。おっぱいを語るには、その多面性を理解し、整理したうえで、語るべき側面を慎重に選択しなければならないのだ。
それでは、おっぱいを語るうえで、われわれにとってもっとも重要な側面、つまり、性的欲求の対象としての側面からみてみよう。

おっぱいの性的側面を語るにも、最初の障壁が立ちはだかる。それは、おっぱいに対する解釈の多様性である。個人によって、おっぱいの嗜好性が異なるどころか、おっぱいそのものに対する価値観、つまりおっぱい観が異なるからである。
われわれは、おっぱいについてよく知っている。生まれたとき、最初に口にするもの、それがおっぱいなのである。乳児にとって、おっぱいは、栄養源であり、母そのものである。この時点では、おっぱいに対する解釈の多様性は存在しないと考えて良いだろう。もしかしたら、乳児は、おっぱいと自分の区別すらついていないかもしれない。発達心理の観点からも、『心の理論』を獲得していない乳児は、自分とおっぱいを区別することができないだろう。つまり、授乳期間中の乳児は、おっぱいと自我が一体化している時期であると考えられる(融合期)。

融合期では、おっぱい観に個人差は無い。では、個人差が発生するのはどの時点なのだろうか。
授乳期間が終了すると、離乳食を食べ始め、いわゆる乳離れを経験することになる(離乳期)。おどろくべきことに、いま、これほど欲しているおっぱいを、われわれは一度、手放しているのだ。
そして離乳が完了すると、おっぱい観の獲得課程にとってもっとも重要な時期、つまり忘却期に突入する。これはおっぱいに対する欲求が、おっぱい以外の、生きていく上で大切なことを学ぶのを阻害しないようにするために、一旦おっぱいを忘却する時期である。忘却期では、それまであたりまえだった、『食事としてのおっぱい』『母としてのおっぱい』を忘れ、『おっぱいとはおっぱいである』という考えを身につける。これは、おっぱい観の初期化であり、すべてのおっぱい観の基本となる考え方である。そして、この忘却が故に、のちに、『おっぱいとは何なのか?』と考えさせられることになるのである。まさに、いまのわれわれのように。かつて『食事』であり『母』であったはずのシンプルなおっぱい観が、忘却を経て、新たな旅立ちを迎えるのである。

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  • May 8 2010, 6:49 AM
    ryo katsuma liked this post.